【3 想夫恋】
「メンフィス……あの……」
一抱えもある大きなクッションに身体を预け、黒髪の少年がくつろいだ姿势で书类の束に目を通している。端丽な雕像のようなその横颜。
その傍らで、まだ柔らかな汤気の立つ茶器を抱えたまま立ち尽くしていた少女が、やがて意を决したようにおずおずと少年に声をかけた。
「あの、これ……」
「…………」
「その、ナフテラに言われて……わたしあの、だからその、えっと……」
凛と切れ上がった漆黒の眼差し。锐い视线に无言で睨まれて、キャロルは困ったように口の中でなにやらぶつぶつ呟くと、両手に抱えていた大きな盆をカチャリと下ろし、手早くうつわに香茶を注いでぐいとメンフィスに突き出した。
「はい、どうぞ」
「…………」
可怜な外见に似合わず、なんとも粗雑な给仕である。メンフィスは一瞬呆れたように軽く目を见开いたが、特に咎めようとはせず、黙ってうつわを受け取ると、そのままひとくち口に含んだ。甘くさわやかな芳香が口中に広がる。
「メンフィス……あの、なにかわたしにも手伝えることって、ないかしら?わたしは政治は専门家じゃないけれど、ちょっとくらい何か役に立てるかもしれないし……」
「必要ない」
おそるおそる言い出した少女に言下に答えると、メンフィスはふたたび手元のパピルスに视线を落とした。ざっと目を通して特に重要な点はなしと判断すると、ぽいと脇に投げ舍てて新たな书状に手を伸ばす。
広々とした王の居室は、エジプト各地の砦や荘园、大臣や执政官から届けられた报告书の束で、その床のほぼ半分が埋められていた。
「でも、これだけの量の书类に一人で目を通すのは大変でしょう?」
「だからといって、そなたが见たところで意味はない」
「でも……っ」
「うるさい」
なおも食い下がろうとしたキャロルの意见をすげなく却下すると、メンフィスはまた别の书类を掴みあげた。けんもほろろのその态度。
话の継ぎ穂を夺われて、キャロルはほうと小さく叹息をもらすと、仕方なくさしあたっての会话を谛めてぽすりとその场に腰を下ろした。クッションの沈む軽い音に、メンフィスが小さな一瞥をくれる。
途端、どきりとキャロルの胸が高鸣った。「出てゆけ」と言われるかと一瞬身を硬くするが、メンフィスはそれ以上特に何かを命じる様子もなく、キャロルはひとまずほっと胸を抚で下ろした。
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あの冲撃の日から数日。
王の记忆の丧失に一时は騒然となったエジプト王宫も、当初の恐慌が过ぎ去ると共に次第に落ち着きを取り戻し、ここ数日は小康ともいえる平穏のなかに日々を过ごしていた。
それはひとつには、宰相イムホテップを笔头とする侧近达の努力の赐物でもあったし、もうひとつには当事者である王本人が、惊叹すべき胆力でもって自身の动揺を抑えこんで见せた为でもあった。
例え表面的にであっても、王が泰然たる态度を崩さなければ、臣下达はそれなりに安心し沈着するものである。
エジプト王メンフィスがその记忆を失ったという事実は、重臣达の手によって厳重に伏せられ、その场に居合わせた者达には彻底した缄口令がしかれることとなった。
「これはわがエジプトの一大事。重大なる秘事でございます。王の御身におきた异変を决して他国に知られるようなことがあってはなりませぬ。王妃さまにはさぞかしお辛いこととは存じますが、そこをこらえて、なにとぞ王の御ために御力を贷していただきたく、この通り伏してお愿い申しあげまする……」
苛酷な现実に、ほとんど呆然と虚脱していたキャロルに向けてそう言うと、イムホテップは深い理性の光を宿した眼(まなこ)を伏せ、深深と头を下げて见せた。
王国の重镇たる宰相にそうまで言われて否やの言えるわけがない。うろたえ、恐缩しつつも、キャロルははっきりと颔いて、これまでと変わらず王妃として王国のために力を尽くすことを约束した。
イムホテップに言われるまでもなく、もとよりそれはキャロル自身の望みでもあった。
キャロルがこの古代世界に留まったのは、ひとえにメンフィスの存在あればこそ。たとえ记忆を失っているとはいえメンフィスはメンフィスであり、彼女の爱した相手がそこに在ることに変わりはないのだ。
悄然とうなだれる心を叱咤すると、手足にしゃんと力を込めて立ちあがる。
自身の根干をなす思いを确认して、迷いを振り払い、キャロルは毅然と面を上げた。
「イムホテップ、わたしはきっとメンフィスが记忆を取り戻してくれると信じています」
王妃の言叶に、老宰相が黙って颔く。
「けれど、たとえもしメンフィスの记忆がこのまま戻らなくても―――それでも、わたしはかまわないと思っています。幸いメンフィスは何もかもを忘れてしまったわけではないようだし……」
そこまで言って、キャロルはわずかに苦しげに唇を噛んだ。老宰相イムホテップが、年若の王妃を労わるようにいっそう深く头を垂れる。
侍医をまじえた侧近达の见立てによると、メンフィスの记忆の丧失はここ数年―――ネフェルマアト王崩御の少し前から、现在までの约二年间の事象に限られているようだった。
王の不兴を买うほどに、执拗に并べ立てられた质问の数々。
それに苛立ちを见せながらも、少年は大半正しく答えてみせたし、ナフテラやミヌーエをはじめ、古くから仕えた侧近达のこともちゃんと见分けているようだった。自分自身が谁であり、どういう立场の人间であったかもきちんと认识しているらしい。
ただここ数年の记忆だけが、まるで拭いとったようにきれいに消えてしまっているのだ。
记忆の一部丧失―――とはいえ、王の日常生活に関しては、実のところさしあたった支障は出てはいなかった。
即位して后の记忆がすっぽりと抜け落ちているため、王国内や周辺诸外国の诸事情を内政外交両面であらためて学びなおす必要があり、またメンフィス王统治の初年度に、対ヒッタイト、アッシリア、ついではバビロニアと复数の戦乱が频発したため形成された、微妙な诸国の势力バランスを把握するのに、最初は多少のてこずりを见せていたようだが、すでに王子时代から父王の共同统治者として政治の一画に参与していたメンフィスである。
短い期间に王国の状态を正しく把握し、差し障りの少なそうなあたりから、すでに政务にも手をつけはじめている。
エジプト国王であるメンフィスにとって、记忆の丧失はさしたる障害になってはいないというのが実情であり、臣下一同ほっと胸を抚で下ろしている状况であった。
―――だが、キャロルにとっては―――。
メンフィスはキャロルを覚えていない。
新参の侍女や従仆といった小者达をのぞいて、王の身近に仕えた人间达のなかでキャロルの存在だけが、メンフィスの记忆から抹消されてしまった。
(……それは、仕方のないことだわ)
理性では纳得している。それはどうしようもないこと、谁を恨むわけにもいかないことなのだと。
ミヌーエやウナスをはじめ、王の侧近く侍り、王が信をおいている者达は、たいていが幼少时からメンフィスに近しく仕えてきた者达だ。
いまさら仅かな记忆が无くなったところで、さしたる痛痒は感じない。
だがキャロルは违う。
ある日いきなりナイルより现れ、あれよという间に王宫へ上がり、王の想い人となったキャロルには、彼らのように积み重ねてきた歴史はないのだ。
时间など関系ないほどに、深く激しく爱し合ってきたつもりだった。
谁よりも深いところでしっかりと心が结びついていると思っていた。
共に手を携え、力を合わせて几多の困难を乗り越えてきたのだ。共に过ごした时间は、少女の稚い人生においてさえ何分の一の长さでしかなかったけれど、そうして通い合わせた绊は绝対不変のものだと信じていた。
なのに、それがいきなり、すべて消え失せてしまった。
愕然とした、などという言叶ではまだ足りない。
『何故、どうして、わたしのことだけを忘れてしまったの―――!?』
どれだけそう叫びたかったか分からない。虚无を抱えた暗夜の眼差しに呑まれなければ、きっとキャロルはそうメンフィスを诘ってしまっていただろう。
まるで悪梦を见ているようだった。事実、あの冷ややかな视线を梦に见て、なんど夜中にうなされて飞び起きたことだろう。
(记忆などなくてもかまわない)
(无事でいてくれただけで十分。―――命に関わるような怪我がなくて本当によかった―――)
そう思う心も本心。伪りはない。
けれどその同じ心のもう一方で、こんなのは嫌だ、こんなことは信じないと、闻き分けなく叫ぶ声がする。『嘘つき!』と悲痛な声で身を捩って、引き裂かれた心が泣き叫ぶ。
―――爱してるって言ったくせに。なにがあろうと、どんな运命が待ちうけようと、わたしの爱は未来永劫そなたのものだって……、そう言ったくせに!
失ったもののあまりの大きさにあらためて呆然とする。
胸を冷やす寒寒とした孤独。独りで过ごす夜の长さがキャロルを苛み、豪奢な寝间の暗の深さが少女の心を怯えさせる。
心臓を握り溃されるような钝い痛み。たまらず悲鸣が迸り、厳重に盖をした心の奥底で、抑えきれない想いが涡を巻く。どろどろとした情念が、愤りとなって今にも吹き出しそうになる。
―――嘘よ。こんなのは嘘。信じない。
―――あなたがわたしを忘れるなんて嫌っ……!
分かっている。これは自分の我侭だ。
忘れてしまったのは彼の所为ではない。自分に彼を责める资格などない。
たとえ谁が言わずとも、キャロルには分かっていた。メンフィスが记忆を失ったのは自分の所为なのだ。
あの时―――棹立つ马の背から落下した时、もしもひとり马上にあったのなら、メンフィスがこれほど酷い打撃を受けることは决してなかったはずだ。
自分という余计な邪魔物がなければ、メンフィスはおそらく马を立て直しただろうし、仮に落马するとしても受身くらいは十分に取れたはずだ。
それがあんなことになったのは、キャロルの身体を庇った所为だ。彼女に冲撃がいかぬようにと、そればかりを优先した所为で、自分自身の身体をかまう暇がなくなったのだ。
メンフィスが悪いわけではない。责められるべきは自分のほうだ。
だが分かっていても、それでも切なく心が叫ぶ。
―――思い出して。
―――忘れないで。
血を吐くような思いでそう愿う。
滚るような情热を込めて、自分を见つめた漆黒の眼差し。
热く激しく、息もとまるほどに强く自分を抱きしめた逞しい両腕。
すべてが狂うほどに懐かしくて。恋しくて。
哀惜と追慕、狂恋の想いに気が违いそうになる。
―――メンフィス……お愿い……
わたしを见て。
もう一度、わたしを抱いて。
もう一度、わたしを爱して。
あなたの胸に还りたい。
あなたのあたたかな腕の中で、もう一度好きだと聴かせて欲しい。
メンフィス―――谁よりもあなたを爱しているの―――
だからお愿い、……思い出して。
―――思いだして―――
爱しているの……
お愿い、わたしを……忘れて……しまわないで―――…………