蕨手刀から太刀
図解・①
当初、虾夷は生活必需品として、上记図解・①の刀子や蕨手刀など、比较的小さなものを造り使っていたと考えられます。その様な中、大化改新(**五年)の顷から、律令政権の东北への进出(侵略)が目立ち始まります。七〇〇年には〔北辺东辺での鉄冶を禁ず〕との「関市令」を以て、当地での鉄器造りを禁止させ、翌年の七〇一年には「大宝律令」を発布し、その大仪を以て东北への进出を本格化してきます。この侵略に対し虾夷は、生活必需品の蕨手刀をも武器として用い抵抗したと考えられます。蕨手刀は武器として徐々に长さを増してきます。
図解・②
奈良时代も后半なると益々激化し、律令政権は大友家持や纪古佐美を指挥官とし再三奥州攻めを缲り返しますが、一向に落ちません。そこで坂上田村麻吕の登场となり、それを迎え撃った虾夷の长・アテルイの时代、奈良时代末期から平安时代初头(约一二〇〇年前)、図解・②の毛抜形蕨手刀と称される形のものが现れました。その柄に空かし状の穴があいています。 この形状を「毛抜形」と称しています。何故、このような形のものが造られたかは、次のことが考えられます。
律令政権侧の作品(直刀)は、锷の装着は手前から入れ、柄木を用いますが、虾夷の作品(蕨手刀)の锷の装着は切っ先からで、柄木を用いない「共柄」(共鉄柄)です。そのためにしっかり握る为、或いは、冲撃を吸収する为と考えられます。
図解・③
前时代の「毛抜形蕨手刀」が益々进化してきます。千年ほど前、平安时代中期に东北を舞台に「前九年・后三年の役」の大きな戦いが缲り広げられました。律令政権侧の八幡太郎义家亲子に対し、东北势は安倍贞任亲子の时代です。この顷に「毛抜形太刀」と称されるものが、一部の高位高官に用い始められました。これは「日本刀」の范畴に入るものですが、虾夷の作品と同じく毛抜形・共鉄柄、それに锷の装着は切っ先からです。
図解・④
前姿の毛抜形太刀に柄木の装着など、现在みられる「太刀」へと普及したものと考えられます。
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